ステーキ

 都心の閑静な住宅街に小説家が夜な夜な訪れるという不思議な食堂があるらしい。そこへはいつ押しかけても絶品の料理を出してくれて、料金は自分の書いた短編小説のみという夢のような場所だ。

 若手小説家、安藤道久は半信半疑でその家を訪れていた。この住宅街はお金持ちがたくさん住んでいるのだろう、しっかりとした門構えの豪邸が立ち並んでいる。その中でもここは一際大きな家だ。庭には誰もが聞いたことのある外車が3台も並んでいる。噂によるととある文豪が愛人である家主のためにこの家を購入したとかなんとか聞くが……。

 チャイムを押した後程なくして扉が開き家主の篠宮ひかるが現れた。黒い長髪に黒縁眼鏡をかけた細身の女性で、なるほどこれは愛人にしたくなる、と道久は思った。しかし道久のよこしまな感情はすぐになくなる。
 「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 ひかるは今にも消え入りそうな野太く低い声で歓迎した。
 「男なのか……」
 少し期待した自分が恥ずかしくなった。
 
 こじんまりとしたリビングは真ん中に一つ長方形の質素なテーブルと椅子が4脚置かれているだけで、それ以外は何もない。食堂というよりは家だ。
 疲れ切った道久は近くにあった椅子に腰掛け目を閉じ今日あったことを思い返す。
 ビジネス週刊誌で連載する予定の小説の取材で朝から東奔西走していた。内容としては腕はいいが売れない陶芸家がなんとか自分の作品を世に知ってもらおうとマーケティングなどのビジネス戦略を駆使する……というものだが、陶芸家という職業は知れば知るほど奥が深く、この話の設定がうまく噛み合っていない気がする。明日も取材の予定だが収穫は少なそうだ……。

 「サラダです。ドレッシングはシソです」
 「うぉっ……ありがとう」
 目を開けるとひかるはすでにキッチンに戻っていた。なんとも不思議な青年だ。ともかくサラダを頬張る。
 どの野菜もシャキシャキとしていてうまい。そういえばここ数日カップラーメンばかりでろくに食事をしていなかった。久しぶりの咀嚼に体が喜んでいる、気がする。

 バターの香りがすると同時に分厚い肉の焼けるジューッという音がした。
 「ステーキだ」
 わかった瞬間大きく腹が鳴った。そこにソースのかかる音と匂いがしてさらに畳み掛けてくる。今まで鉛をつけられたように重かった体が突然軽くなった。
 ああ、早く肉を頬張りたい。

 「お待たせしました。」
 数分、道久の体感では何時間後に、お待ちかねのステーキがやってきた。
 こんがりと焼け、きらきらと輝くソースで彩られた分厚いステーキ肉、炊き立ての白米と透明なオニオンスープ。
 道久はテーブルに置かれるや否やすぐに肉にナイフを入れた。
 力を入れることなくスッと切れた。中はうっすらとピンク色で肉汁が溢れており、こぼれないうちに豪快にかぶりつく。待ち望んでいた芳醇な味が口の中いっぱいに広がり、噛めば噛むほど肉とソースの味が深く絡み合う。そこに白米を頬張る。肉の味を優しく包み込み、なんともいえない多幸感が溢れる。オニオンスープは肉の邪魔をしないように素朴な味付けにされているが、素材の味はしっかりと生きている。豪快にかぶりつく。待ち望んでいた芳醇な味が口の中いっぱいに広がり、噛めば噛むほど肉とソースの味が深く絡み合う。そこに白米を頬張る。肉の味を優しく包み込み、なんともいえない多幸感が溢れる。オニオンスープは肉の邪魔をしないように素朴な味付けにされているが、素材の味はしっかりと生きている。

 気がつけばあっという間に完食していた。
 見るとひかるがさっきあげた短編小説を立ったまま読んでいた。 学生時代に友人と軽いノリで書いたものだが、本人は目をきらきらさせて読んでいる。

 「本当に美味しかった!ありがとう」
 「いえ、こちらこそ先生の短編小説が読めて嬉しかったです。またお越しください」

 外に出た道久の表情は先ほどまでと違い、晴れやかなものになっていた。
 売れない陶芸家が1人の料理人と出会い人生が一変……なんて話も面白そうだ、と住宅街を走り抜けていった。

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